第一章:日本におけるフィットネスビジネスの歴史

ランニングシューズ
フィットネスクラブというと自分が大学生の頃女性がレオタードを着てエアロビクスを行うというイメージがあり、しかも洋楽でオリビア・ニュートンジョンが「フィジカル」という曲でヒットを飛ばしていた事が思い出されるので1980年台くらいからかと勝手に思っていた。
しかし調べてみるとその当時まだ日本にフィットネスという言葉は知られていなかったが1回目の東京オリンピック開かれた1964年の6年後1970年にすでに今はスポーツクラブの大手、セントラルスポーツクラブが会社として設立されていた。

東京オリンピックの後

先の東京5輪では日本のメダル獲得数はアメリカ、ソ連続き3位で29個だった。内訳は金が16、銀が5、銅が8でレスリング、柔道、体操などの種目で多くメダルが取られた。
そしてオリンピックの翌年から実業団によるサッカーの「日本リーグが行われるようになりその後、バレーボール、バスケットボールなど多くの競技に広がっていたようだ。
また、東京オリンピックのコーチや選手だった人たちが、オリンピックの翌年から始めた水泳、体操などを中心とするスポーツのクラブ(スクール、教室)は、たちまち全国に波及し、幼児から家庭の主婦、中高年まで、幅広い人々が参加するようになったようだ。
このようなオリンピック以降に日本の国民にスポーツや運動を行う機運や設備が整ってきたのであろう。
セントラルスポーツクラブも1号店はいわゆるスイミングスクールの「セントラルスイムクラブ千葉」として1976年に開業している。
やはり総合スポーツクラブの大手であるルネサンスも1976年に設立されている。

フィットネスブーム

そして1981年にエアロビクスの提唱者である運動生理学者であるケネス・クーパー氏が来日しこれで一気にエアロビクスを中心として一気にフィットネスブームとして巻き起こったようだ。先に出したオリビア・ニュートンジョンの「フィジカル」という曲も調べたらこの年に発売されていた。これは業界の一つの戦略だったのかもしれない。
折しも日本経済はバブル期に差し掛かってきた時期にあたり1983年に東京ディズニーランドが開業し、その年にいくつかのスポーツクラブが東京で開業していた。
また80年台中期以降には都市部だけではなく地方にはプール付きの大型総合スポーツクラブが開業してくいくことなる。
またそれまで対象者を20代の女性を中心に考えられていたが30〜40代の男女を対象者として考えられるようになってきた。

スイミングスクールからフィットネスクラブへ

スイミングスクールからフィットネスクラブのへの業務転換も進み運動やスポーツのための運動だけでなく楽しみながら運動する、あるいは痩せるために運動する、或いは一つのブームやファッションとしてエアロビクスをやっている自分が好きとか、レオタードを着てみたいとか、出会いを求めてとか、運動と全く別の動機や欲求を満たしたくて行っていた人たちもいただろう。
そのような事がフィットネス人口を嵩上げしていった事もあるだろう。
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